第6回「ノホホンの会」報告

2011年11月15日(火)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室) 
参加者:六甲颪、狸吉、山勘、ジョンレノ・ホツマ、恵比寿っさん、本屋学問

今回は、致智望さんがご事情で欠席となりましたが、いつもの談論風発は変わらずでした。
書感もエッセイも、まことに頼りない国家への厳しい意見を反映したものがありました。震災復興、税金問題、TPP、ヨーロッパ経済危機、…。内政外交とも今の政治家や役人たちには重荷すぎる課題が山積していますが、日本の行く末は?

(今月の書感)
現代詩の泰斗が人生をやさしい言葉で語りかける「希望・杉山平一詩集」(本屋学問)
中国の未来を大胆に予測した「中国のジレンマ、日米のリスク」(恵比寿っさん)
リスクマネジメントから東日本大震災を読み解く「『想定外』を想定せよ―失敗学からの提言」(同)
加齢とともに避けられない聴力の問題をわかりやすく解説した「耳トレ! こちら難聴・耳鳴り外来です」(ジョンレノ・ホツマ)
科学で説明できないスピリチュアリズムを実体験から問う「人は死なない―ある臨床医による摂理と霊性をめぐる現象」(狸吉)、でした。

(今月のネットエッセイ)
「東日本大震災へ冷静な対応は日本人として当然であった」(六甲颪)
「深刻な“政治災害”」(山勘)
震災以降に出版された多くの本に、東日本大震災のことが書き加えられているそうです。大きな自然災害や戦災が、その時代の人間の思考や社会の動きにはかり知れない影響を与えることを実際に経験し、人類の歴史をまた違った方向から読み直す機会を得ました。


(事務局)
書感 2011年11月分

希望・杉山平一詩集/杉山平一(編集工房ノア 2011年8月 本体1,800円)

  普段、詩というものにほとんど触れる機会のない門外漢にとって、現代詩はあまりに高尚な分野と考えていたが、1914年生まれの現役最長老の現代詩人として数々の賞を受賞、また映画評論にも健筆を振るった作者によるこの詩集は、選び抜かれた一語一語を丹念に紡いだ、初心者にとってもどこか懐かしい、改めて日本語の美しさを再認識させる1冊である。

とりわけ本書は、編纂にかかり始めたときにあの東日本大震災が起こり、会津に生まれながらほとんど東北を知らなかったという作者の特別な思いが、被災地への激励の意味を込めて題名を「希望」としたという。

「東北地方の人たちは後ろ側にその美しさを秘めている。…。今こそ、隠れていた背中の印半纏を表に出し、悲境を越えて立ち上がって下さるのを祈るばかりである。…大漁旗を翻して新しい日本を築いて下さるように。」作者はあとがきで、万感の思いをこのように記している。

もちろん、掲載されている63編の詩は大震災の前に詠まれたものだろうが、読み進むにつれてぼんやりながらも被災者や復興への思いが浮かび、詩がいかに私たちの日常生活と深く結び付いているか、生きることへの心の機微を表現しているかを不覚にも思い知った。

 

いま

もうおそい ということは 人生にはないのだ

おくれて 行列のうしろに立ったのに

ふと 気がつくと うしろにもう行列が続いている

終わりはいつも はじまりである

人生にあるのは いつも 今である

今だ

 



 還暦は過ぎたがまだまだ仕事を続けたいと思っている私に、これ以上のエールはない。凡百の言葉よりもこの詩に勇気付けられた。若い人もそうでない人も、この詩集のなかの好きな言葉と人生観に共感できればいい。「希望」という題名そのものが、私たち一人一人が自分の道をどう生きていくかを、やさしく見守ってくれているような気がする。

(本屋学問 2011年10月25日)

中国のジレンマ 日米のリスク/市川眞一(新潮社新潮新書 本体720円)

 著者は1963年生まれ。クレディ・スイス証券チーフ・マーケット・ストラテジスト。

明治大学卒。和光証券、クレディ・リヨネ証券を経て2000年に現在の会社へ。

小泉政権で構造改革特区評価委員。民主党政権での仕分け人など公職歴任。


はじめに

 これからは中国の時代だ!と口をそろえて叫ぶ時代だ。軍事・外交で存在感が高まっているが、実は政治・経済両面から岐路にある。確かに国民生活は豊かになった。その豊かさが実は曲者だ。豊かになればなるほど、人はより豊かな生活を求めるからだ。これからの5年間が真価を問われる中国。民主化への対応を間違えれば、国が分裂する可能性もある。

第1章 なぜ、中国は金融危機に強かったのか

 世界が中国を大きなビジネスチャンス、そして脅威と見るのは「数の力」と「成長率の高さ」で、中国政府はその強みを熟知したうえで他国の政府・企業に対して自らのルールに順応することを求めている。そして、今や中国を無視して世界経済を語るのは困難な時代。

 リーマンショックに際し日本の対応の遅れはリーダーシップの欠如であるが、民主主義であるがゆえに対応も遅れることも否めない。中国指導部の強力な指導力が奏功したことは異論がない。しかし、今後は一党独裁であるが故に、経済的な苦境への対応力を欠く可能性がある。

新興国だが、強い特徴もある。①巨額の対外資産、②貯蓄率が高く国内に金融資産が蓄積されている、③健全な財政状況。これらは相互に関連するが、通貨管理という先進国には許されない手段を用いて元を割安に保ち輸出の拡大を成長の源泉にしている。強い元に見合う産業構造への転換への時間稼ぎをしているといえる。

 しかし、中国ではバブルは発生していないと著者は説く。不動産の価格が名目経済成長率を何年も上回った場合にバブルが生じていると著者はいう。一部を除いて中国では、この逆転現象は起きていない(今は継続して金融引き締めをしている)

 金融危機が起こるのは民主主義なるが故で、一党独裁では可能性は低い(臨機応変)。

第2章 中国が陥りかけているジレンマ

巨大な人口・労働力・市場が求める資源。一人当たりでみれば日本の40%だが、総量では4.5倍のエネルギー消費。IEAの予測が正しいと、2015年に中国のエネルギー消費量は世界の22%を占める。中国は既に、米国と並ぶ巨大な影響力を持つ。米経済が立ち直れば、世界の資源需給に影響し価格高騰が日本よりも中国への大きなインパクトとなる(加工貿易で成長してきたのは日本と同じ。90年代は低品質・低価格と日本と棲み分けたが、先進国企業の中国進出で今は高品質・高価格に向かっている。しかし、レアアースを除きすべての資源は自給には程遠い。未だ、効率も悪く同じGDPを生むのに日本の4.7倍のエネルギーが必要。

 今後、高成長率を維持しようとすれば資源価格を高騰させ強いインフレ圧力になり、輸出競争力も落ちる。資源効率を上げるには新たな投資や時間もかかる。一方、経済成長率を落とせば、高い資産価格を支えられなくなりバブル崩壊のシナリオもあり得る。最も深刻なのは、そうなると国民の不満が共産党独裁に向けられる懸念である。

経済構造的にも中国は投資に偏っており、自国の成長による資源価格へのインパクトを抑制しながら、国民の満足する成長を維持することは非常に難しい舵取りとなる。すなわち、日本の70年代(高度経済成長の行き詰まり)に近づいている。

第3章 70年代の日本が暗示する(中国の)未来

 現実的な選択は$に対する元の段階的切り上げ。70年代に似ているのは、環境対策予算の急増。いま、それが中国。政治も豊かになる過程で生じた矛盾への怒りや豊かさを奪われることへの不安で日本の支持も不安定化したが、今はそれが中国で所得格差や公害問題。旺盛な資源重要など高度経済成長特有の問題が顕在化している。日本は特有の文化や人口・単一民族や教育的背景でその時代を乗り切った。多民族と文化・多様性13億の人口・一党独裁が上手く経済構造転換できるか要警戒。

第4章 アメリカが中国経済を左右する

 米経済、金融政策・通貨政策は中国の経済に多大に影響。$は依然として強い存在。貿易・サービス収支で巨額の赤字だから。旺盛な消費が$を基軸通貨に保っている。日本や中国はドル資産(国債)を大量に保有し、米国の消費に融資していると言える。米国は金兌換でない$をもって(軍事費も含めて)、コストをかけて世界経済のルールを定め支配し都合の良い環境を作っている。

 円は他国の財やサービスを買わないので、国際化・基軸通貨の条件に失格。元もそうだがいずれは内需主導・消費中心の成長過程に入り基軸通貨たりえる。これは中華思想にとって魅力的なシナリオ。今後はITや住宅ではなく資源が主要なテーマとなる可能性が強い。中国が危機の主役になるシナリオが十分に考えられる。

第5章 資源インフレの淵に立つ世界経済

 オバマは大統領選挙に向けて好景気を演出する。副作用はつきもの。①ドルが不安定化する可能性、②世界的なインフレが加速する。ドルの過剰供給がその背景。米中が成長を続ければ、米中だけでオペックの増産余力を食いつぶしてしまう。資源高に加え投機マネーが主要資源に殺到する。筆者は12〜13年は資源バブル、14〜15年はバブル崩壊と予言する。省資源・省エネや資源の需給構造を変えないと資源高のリスクは続く。

第6章 5年後の中国、日本の行く道

 習近平がこの逆境を切り抜けるには「高付加価値品・多様化生産」へのシフトが喫緊の課題。技術と品質で十分な競争力を確保する必要がある。また、政策に民意が反映されていると思える政治。社会主義市場経済は「民主主義市場経済への過渡期」が現実。これが出来れば、中国は覇権国家になろう。

第2のシナリオはこの逆。国家が分裂してバランスのとれた形になる。2つは紙一重。資源インフレへの対処が鍵。覇権国家になれば日本は大きな恩恵を受ける。しかし、外交面では厳しい対応を迫られる今後の5年で決まると思う。資源の時代。

終わりに 

 エコノミックアニマルと呼ばれた60年代を経て、激変の70年代、繁栄の80年代を経て、働くことが?となったのか日本。


書感:私もこれと似た一種の危機感を持っています。2つのシナリオは強烈な印象です。

恵比寿っさん)

「想定外」を想定せよ!―失敗学からの提言(畑村洋太郎/NHK出版 本体1,000円

著者は1941年生まれ。東京大学院修士課程修了・工学博士。日立製作所を経て東大助教授、教授を経て、現在は東大名誉教授、工学院大学教授。失敗学の創設者。専門はナノ・マイクロ加工学・生産加工学・創造的設計論。

はじめに

東日本大震災は「想定の範囲を超える自然災害だったから、仕方がない」という責任逃れの免罪符のように思われる。著者は15年前から、三陸津波の独自の調査を行い、同じような被害が生じる危険性を指摘してきた。想定外とは何か。失敗学の立場からの提言といえる警告の書と言えると思います。

第1章 大想定とは何か

さまざまな制約条件を加味したうえで境界を設定するのが「想定」。一般にものを設計する場合、想定された使い方を超えても壊れない領域がある(3倍くらいの安全率)と、想定を外れても壊れない範囲(安全率10倍くらい)があり、それを超えると破壊に至る。重要なのは、想定とは何かの根拠があって設定されるものではないということ。だから、想定とは人が勝手に決めたものであり、想定外は起こり得ないものではなく、確率は低いが起こる可能性があると言うこと。

想定内の事象に対しては、考え方のルートが確立しているので的確に対応がされる。想定には、人間の心理が反映されている。即ち甘く想定される。だから、想定外なので準備が出来ていなかった、という開き直りはお粗末ないいわけである。

第2章 あり得ることは起こる!

失敗学は責任追及ではなく原因究明を目的に失敗を見つめ、再発防止につなげるのが役割(そして、この章では回転ドア、電車のドアにベビーカー引きずられ、シャッターなど事例を挙げている)。

第3章 なぜ、あり得ることが忘れられるのか

 失敗の記憶消滅には法則性がある!個人では3日3月3年で忘れ、組織では30年、地域では60年、社会では300年で忘れられる。また、失敗は風化しやすく「伝わらない」性格を持つ(日比谷線せり上がり脱線)。また、ハインリッヒの法則(1件の重大事故の前に、軽微な事故が29件起こっていて、ヒヤリ・ハッとの出来ごとが300件起きている)も紹介している。

第4章 「想定外」を想定せよ!

「釜石の奇跡」は、群馬大学(院)の片田教授の尽力、8年前から実践教育をしてきたので、小中学生≒3000人の99.8%が助かった。「津波てんでんこ」は、家族のことも構わずに勝手に逃げろ、と言う意味で、「他の家族は必ず逃げる」という信頼感に基づいての行動である。先人の思いが生かされている。釜石では①誰が逃げなくても自分が最初に逃げろ、②逃げるために最善を尽くせ、③ハザードマップを信じるな、と教えてきたそうです。

第5章 「想定外」にいかに対処するか

 全体を把握、仮想演習や逆演算を習慣づけ「前提が変わったら、何が起こるかを予め考えておく」

 地震で直ぐに逃げず、命を落としてしまった人がいることで、片田さんは「敗北」だったと悔やんでいる。著者もこの著作の内容は全て、以前に発表しているものだが、今回の地震の惨状を見るに、自分の声がもっと多くの人に届けられていたら、と思わずにいられないそうです

私見:本書にも記載されているが、明治三陸地震(明治29年)に宮古市姉吉地区には38mの津波が来て、「ここより下に家を立てるな」と石碑があるそうです。これだけの津波が近年にあったにも拘らず、福島原発の防潮堤は何故10mしかなかったのか、地震発生時に飛びついたのは「Google Earth」で、浜岡原発の風景でした。そして浜岡の危険性をある公の場で訴えたのが4月8日、時の首相が中部電力に停止要請(記者会見が5月6日)をする1カ月前でした(後智恵でないことを言いたかったのです)。

 原子力発電推進派の私がゆえに、福島の防潮堤は50mの高さが必要なのです。被爆国が故に、原子力発電所の危険性を口にすることが出来ず、何の根拠もなく時間をかけて「安全神話」をねつ造してきた報いです。
 危険なものを安全に使うようにするのが技術者の仕事です。本質的に安全なら東京湾内に作っても良い筈でしょう。そうではないので福島に作るなら50m、東京湾内なら100mの防潮堤が必要、と私は思っています。

(恵比寿っさん)

  耳トレ! こちら難聴・耳鳴り外来です(中川雅文/エクスナレッジ201110月)

 難聴という自覚はないものの、以前に比べて聞き取れにくくなっていることにはうすうす気が付いているものの、認めたくは無いのですが、本書を知り今後のため取り上げました。

いろいろ思い当たる点もありますが、著者も読者に刺激を与えないように、婉曲に注意を勧告されているところはさすがだと思いました。

難聴は気付きにくい。

嫁姑関係も実は難聴のせいかも。

親父ギャグやKYも難聴の兆しかも。

「家に電話しても、誰も出んわ(でんわ)」「このカレーは辛え(かれー)」とかこのダジャレも加齢による難聴と深い関係がある。脳は聞き取れなかった音があると、記憶の中から似ている言葉を探して推理選択する作業をする。同じ読みを持つ言葉、同音異議語や母音が同じ言葉(蝶々「ちょうちょう」、包丁「ほうちょう」)等、候補となる言葉が次々と頭の中に浮かんできます。

自分はユーモアのセンスがあるから面白いギャグが閃くと思っていても、実は聞こえにくくなったせいで、ギャグが思いつく癖がついたかも知れない。

KYとか天然ぼけも、聞き間違いをして的外れな受け応えをしたり、話の流れに合わない話題に振ってしまうケースも、実は軽度の難聴のケースがある。向かい合って相手の眼を見て話をしていれば問題なく会話が出来るため、難聴と思わない。だから気付かない。

自分自身以外の身近な人の振る舞いを見ていて、聞く耳を持たないと思っていたが実は聞こえていなかったのかなと思い直すきっかけになりました。

耳科学の専門家から言わせてもらえば、「聞く耳を持たなくなる」というのは、難聴の人が非常に陥り易い落とし穴です。と言っています。

難聴になってくると高い音から聞き取りにくくなってくるので、高い周波数帯の言語をもつ国の人々は早い段階で不自由を感じます。日本の場合、日本語は125〜1,500Hzで世界一低い周波数帯のため、難聴者にやさしい言葉だそうです

「補聴器なんて年寄りのようでイヤだ」「恥ずかしい」というイメージを持つ人が多く、補聴器をつけるタイミングが遅れる大きな要因のひとつになっている。

今後、機会あるごとに気をつけてみようと思いました。

(ジョンレノ・ホツマ 2011/11/15)

 人は死なない―ある臨床医による摂理と霊性をめぐる現象(矢作直樹/バジリコ 2011年、本体1,300円)


霊界とか死後の世界とかいう類の本は、いわゆる「トンデモ本」だろうとこれまで避けてきたが、たまたま本書を手にして考えが変わった。著者は国立大学医学部を卒業後、救急医として働き、現在東大工学部と医学部の教授である。著者は学生時代登山にのめりこんでいたが、死に直面する滑落事故に二度も遭遇し、山で聞いた不思議な警告に従って今日まで生き延びた由。

著者は救急医として接した患者たちから、憑依や体外離脱の体験談を聞き、また自分も霊媒を通じて亡き母と語り、会話が真実であると知った。また気功の体験から、この世には科学的に説明できない存在があることも感じ取った。

著者は自身の体験を通し、神(著者は摂理と呼ぶ)や超自然現象の存在、およびスピリチュアリズムを信じるようになった。近代スピリチュアリズムによれば、「人間は魂がコンピュータ(脳)付きの着ぐるみ(肉体)を着たような状態」であり、肉体が亡びても魂は不滅と説く。たしかにパソコンも「ソフト無ければ只の箱」であり、パソコンが壊れてもソフトやデータは別の記憶媒体に移せるから、この説明には説得力がある。

霊魂や奇跡は科学的に解明できないから存在しないという主張に、「そもそもすべての事柄は科学的に解明されなければならないのか?」と著者は反論する。理学や工学は科学の上に成り立ち、それにより宇宙ロケットも飛ばせるのだが、「神や霊も計測や再現実験に耐えねばならぬ」と決め付けるのは人間の不遜ではないか。

この本を読み、私も霊魂の存在を信じるようになった。本というものにはそのような力があるのだ。ただし、オウム真理教など危険な教団や金儲け新興宗教をどのように見分けるか頭の痛い問題である。著者が用いた用語「摂理」も、この名を冠した韓国発祥の新興宗教があり、教祖は女性信者への性的暴行で国外逃亡を続けた後、現在韓国の刑務所で服役している。これらの教団に人々が惹かれるのは、わずかでも超自然的要素が存在するのであろうか?

(狸吉)

エッセイ 2011年11月分
 先達の役割

  「万物寿命事典」によれば、職業別平均寿命ランキング第1位は「交響楽団の指揮者」である。チェリストとしても有名なパブロ・カザルス96歳、ストコフスキー95歳、ボールト、朝比奈隆93歳、トスカニーニ90歳、モントゥー89歳、クレンペラー87歳、シューリヒト、ベーム86歳、ワルター、アンセルメ85歳…。80歳を越えてなお指揮台に立ち、現役のまま天寿を全うした名指揮者も少なくない。

では、なぜ指揮者は長生きなのか。思い付く理由を挙げてみると、いつも早起きしてスコアを暗譜し、頭をよく使う。リハーサルや本番でソリストやオーケストラと丁々発止わたり合い、適度の緊張と全身運動で汗をかく。演奏後は、存分に心身の解放感と満足感に浸る。そんな日常を想像しただけで、好きなことをやってこれだけメリハリのある生活を送っていれば、病気やストレスとはまったく無縁なように思える。

一方、作曲家の平均寿命は総じて短い。生きた時代が違うので比較はできないが、シューベルト、モーツァルト、メンデルスゾーン、ビゼー…、いずれも20〜30代で世を去っている。芸術家にありがちな不規則な貧困生活、精神的不安定、虚弱体質、運動不足…、寿命を縮める要因はいくらでもある。ベートーヴェンも還暦前に死んだ。彼らがもっと長生きしていたら、私たちもまた違った作品に巡り会えていたかもしれない。

 手元に1枚のCDがある。ビゼーの「交響曲ハ長調」、パリ音楽院の学生だった17歳の天才が、溢れる才能を明快な旋律に託して書いた習作で、メンデルスゾーンの「イタリア交響曲」を思わせる軽快な導入部が印象的な心躍る曲である。ただ、理由はわからないが、それから80年も経って初演されたというエピソードからしても、決して恵まれた環境にあった作品でないことはわかる。

さて、この録音の日付は1977年6月、振っているのは当時95歳のストコフスキーで、彼はその3か月後に亡くなっているから、あるいは最後の演奏になったのかもしれない。しかし、そのことよりも、若きビゼーが音楽への純粋な情熱を注いだこの初々しい作品を、老巨匠がそれまで歩んできた長い指揮者人生とどのように重ね合わせたのか、10代の若者の作品を95歳のマエストロが振るという、想像しただけでも十分に興奮する“コラボレーション”がなんともたまらないのである。

もちろん、指揮者自身が楽器を弾くわけではないが、4楽章中3楽章に「アレグロ」(速く)の指示があるこの曲から、ストコフスキーはテンポも抑揚も実に若々しく軽やかに、そして躍動的な力強い音を引き出している。ついでに書けば、アンセルメが77歳、ビーチャムが80歳で振った同じ曲も、聴くたびに気持が高揚する名演である。少なくとも音楽の現場では、そんな世代を超えた“共演の妙”が可能なのだ。

潔く後進に道を譲り、悠々自適の老後も悪くない。しかし、死ぬまで好きな仕事をしていたいという気持も、同じように尊重したい。私の岳父は、95歳の今も現役で表具師をしている。毎朝、住いから歩いて10分ほどの仕事場に向かい、職人に指示を出し、名物裂を合わせ、書画を修復し、日本文化の伝統を守っている。趣味は麻雀と競馬、能楽と茶道。一見、対極にあるかに思えるそれぞれの世界のなかでいろいろな人々と交わり、刺激を受け、それを仕事の糧として毎日を元気に暮らしている。

年寄りが働き過ぎて国が滅んだという話は聞いたことがない。中国の故事にあるように、古老の知恵が国を救うこともある。高齢化社会にはそれにふさわしい人―社会システムを構築して、年齢性別を問わず働きたい人にはどんどん仕事をしてもらい、税金も払ってもらう。元気な高齢者が増えれば、医療費も介護費も少なくて済むだろう。若い力と老人の知恵を結び付けた、新しい職業も生まれるかもしれない。

伝承とは、普遍の価値を次の時代に伝えていくと同時に、ある時代が生んだ新しい価値観をその時代に定着させていくことでもある。人生の経験者であり先達である老人たちには、若い感性に保証を与えるという重要な役割が期待されている。

ついでに、指揮者の次に発明家、歴史家、昆虫学者、大学の学長、地質学者、化学者、…と続く。やはり、頭を使って体を動かすことが長寿の秘訣かもしれない。

(本屋学問 2011年10月25日)

 「東日本大震災へ冷静な対応は日本人として当然であった」

2011年3月11日午後2時46分、東北地方の太平洋上で起きたM9という巨大地震と、その数十分後に発生した大津波で、東北地方3県を中心に激しい建物の倒壊や流失が起き、2万人近くの死者行方不明者が出てしまった。更に悪いことには、福島海岸にある原発群は電源破損のまま数日間放置状態に置かれたため炉芯材が溶け始め、遂に水素爆発が起きて空中に飛散してしまった。この影響は、地震発生後約8ケ月経過しても尚治まらない状態が続いている。特に、福島県の太平洋岸に住んでいた住民は仮設住宅でつらい日々を強いられていて、問題の解決は相当時間がかかりそうである。

 この大地震の報道はいち早く海外にも伝えられたし、報道関係者がその実情を報告するため海外から来日し現地を直接取材し始めたが、その災害の激しさ特に津波のすさまじさには驚嘆したようであるが、それ以上に罹災した現地日本人の冷静で沈着な対応振りには、信じられないほどの感銘を受けたと言われている。これは一国の報道官の印象でなく各国の報道官も同感であったらしく、一斉に大きな話題として取り上げた。

 私もこの報道を聞いて一日本人としてよく耐えて危機を切り抜けてくれたと感動したが、外国人記者が騒ぎ立てるほどのことではないのではないだろうか。それは第二次世界大戦中から戦後まで、他の外国人と比べて多くの苦難を経験し切り抜けてきたからである。

@第2次世界大戦の後半1944年の末ころから都市に対する焼夷弾爆撃が激しくなり、東京では1945年3月10日の大空襲で下町の大半が焼失し10万人以上が焼死した。続いて名古屋、大阪はじめ大都市への無差別爆撃がはじまり、終戦までに主要な都市は焼け野が原となってしまった。後は田舎に疎開するか、焼け跡でテント生活をするよりなかった。

A1945年8月には広島、長崎に原子爆弾が投下され、一瞬のうちに各々10万人以上の住民が住居と命を奪われた。生き残った人々もきつい放射能を浴びたので、その後死亡したり、後遺症に悩まされ続けた。

B同年8月15日終戦となったが、戦時中に失った家屋、土地は個人の問題で国は何の助成金も出さなかった。原爆でなくなった方には政府として見舞金を出したが、それ以上のものはなかった。

このように、戦後と現状を比較するには環境が違いすぎるかもしれないが、戦中、戦後の苦労を経験したことを思うと、震災の苦労も戦後を思い起こせば、何とか切り抜けられると思ったであろう。まして周辺の地区からの声援は、大きな励みになっているのに違いない。

改めて現地の人に励ましの声援を送りたい。同時に日本人は、この貴重な体験を生かして人格に磨きをかけたい。

(六甲颪 2011年11月5日)

 ほつま・エッセイ

先月の「のほほんの会」での「十字軍物語」の話しの流れで、西洋と比較してなぜ日本人の間では、違う宗教同士で殺し合いをするような争い事はないのだろうか? という話題が出ました。

 

 私は日本人の性格によるものとは思っていましたが、なぜかについては明確な答えは持ち合わせていませんでした。

 

たまたま、「ほつまつたえ」の今解読中の個所に、偶然そのヒントになる記述がありました。

「ほつまつたえ8綾(章)」の「魂がえし、はたれ討つ綾(章)」という、ちょっとわけのわからない個所で苦戦している個所にです。

多分、大陸から渡来人、技術集団が前触れもなく大挙してやってきて、最前線では争い事が生じ、まさに想定外の出来事に慌てふためき、どう防いでいくかが最大の焦点であった内容を、「はたれ」と言う何が何だか分からない人のねじけた者として物語風に書き改めているのだと、今のところ考えています。

 

この中で一つは8綾13頁に、

「はたれ」に対して天照大神が指示した行動です。

 

どんな相手であっても、慈しみを持って当たれば神威が保たれ、神の力が保たれます。また、よく敵状を知ることは「かんとおり」(神通力)が得られ、無事を保てます。唯々、「やわらぎ」(懐柔)の心を持って戦いすべきです。

 

また、8綾39頁に、

「たけみかづち」という武勇者が鎮圧のため、多数の捕虜を「たかの」(高野山)に引き登る時に、捕虜を縛った蕨縄が首にしまって多くが死んでしまいます。

ここで、死んでしまった捕虜を埋めて塚をたてたとあります。

そして、死者を出してしまったことを深く反省して、死者の霊に対して喪に服したという記述に感心しました。

 

また、何処の綾(章)であったか、記憶定かではないのですが、

敵といえども人間は死んでしまったら神となる。神となったらもう憎しみも無く、祀るという教えがでていました。

 

わずかな記述からですが、我々日本人の先祖がどう生きてこられたか垣間見るような気がしました。気が付かなくとも自然と身に付いている不思議さを改めて感じました。

(ジョンレノ・ホツマ 2011年11月15日)

深刻な“政治災害

国民はいま、自然災害ならぬ深刻な“政治災害”に遭っている。この5年間で6人の総理大臣交代。期待された野田のドジョウ総理も動きがにぶい。焦眉の急である災害復興対策の遅れ、TPP参加問題のもたつきなど、枚挙にいとまがない。

TPP参加問題では、やっと“交渉参加”の表明にこぎ着けたが、野田総理の腰が引けた感はぬぐえない。反対派への説得は少しも進んでいない。反対派の反撃はこれからだ。反対派は、農業、医療などでアメリカにしてやられるという危機感を喧伝する。ということは、反対派や反対する政治家自身も日本政府の交渉力、外交力を信じていないということではないか。

これでTPPの交渉のテーブルに着くことを忌避するというのでは、世界的な貿易自由化の波に乗り遅れ、結果的には先行き、日本の貿易は日本が参加せずに決められた国際ルールに縛られることになろう。

問題は視点の長短にある。参加賛成派は10年先を見ているが、反対派は目先の危機、不利益を重視している。ありていにいえば、反対派の政治家は農業や医療や選挙民の反発を恐れているのが本音だろう。反対派の正義は、TPPについて国民に対する国側の説明が十分になされていない、国民の理解が得られていないというところにあり、だから反対だ、あるいは時期尚早だという主張になる。

しかし、誤解を恐れずいえば、国民一人ひとりが、自分を含めて家族や親戚、知人、友人の顔を思い浮かべてみた時に、この一人ずつにTPPを説明して納得を得る必要があるのかどうか考えてみたらいい。そこまでやる必要があるとは思えない。結局、国民への説明も程度問題で、それを主張しすぎるというのは政治家自身が政治責任や政治決断を回避することにもつながり、責任放棄になりかねない。

残念ながら、国民の目には今の政治家が素人っぽく見える。いってみれば国民だけではなく政治家自身がそれを認め、政治家自身にも政治不信が根付き始めているのが昨今の政界ではないか。政治の場において、国民のコンセンサスを得るという正論を実践しようとすれば、あらゆる物事の決着は時期を失し、前進や改革に縁遠い平均的な結論しか出ないだろう。国民に代わって議論するのが代議士であることを忘れないでもらいたい。

(山勘)